NET-GTASによる初めての翻訳作品である5人の被爆者ビデオから、
それぞれの証言を手短に紹介します。
We introduce you each lives of five survivors the NET-GTAS
translated into foreign languages for the first time
第1回・天野 文子さん
(撮影時80歳、東京都板橋区在住)
Ms. AMANO Fumiko (14 years old at the time of bombing. Filmed at 80 years, living in Itabashi-ku, Tokyo)
14歳、高等女学校4年生の時、広島市近郊で勤労奉仕中に原爆が投下され、翌日、家族の消息を求めて、市内に入る。まだあちこちで煙が立ち上る焼け野原。自宅のあった場所の近くでは黒焦げの遺体が山と積まれていく。そのてっぺんに知り合いの女性を見つけた彼女は、遺体を引きずりおろそうとするが、周りの人と大やけどの身体同士がくっついて離れない。大人に引き止められた。
それまで軍国少女だった彼女は「何だ、戦争なんて人殺しじゃないか。東洋平和のための戦争なんて、嘘よ」と気づく。「私にとっては、その日は戦争の終わった日、初めて戦争を知った瞬間なのです」。
両親と兄弟と合流したものの、半身大やけどの兄は寝たきりで敗戦を迎える。この時、彼女は重体の兄に「負けた」と言えず「戦争が終わった。日本は勝ったよ」とうそを言ってしまった。被爆から13日後、兄は「痛い」とつぶやいて息を引き取った。
兄に「負けた」と言えなかったことが彼女の戦後の生き方に大きな影を引きずらせている。「日本の侵略の中で殺され、傷ついたアジアの人たちの『痛い』が、兄の『痛い』に重なって私の心に刺さります。死ぬ人にはせめて真実を言えばよかった」。
生き残った者に『忘却』は許されない、『沈黙』も許されない。そう考えて、彼女は証言の旅を続けてきた。アメリカでは、体験談を聞いた人から抱きしめられ、一緒に涙して「核廃絶のために一緒に闘おう」と話した。マレーシアでは「日本の平和憲法はあなたたちだけの憲法ではない。私たちアジア2000万人の血のあがないで作られたのです。大事にしてください」と言われたという。対話することこそ、未来につながる歴史を学び、和解の第一歩となる、と信じている。 (長谷 邦彦)
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