から、それぞれの証言を手短に紹介します。
We introduce you each lives of five survivors the NET-GTAS
translated into foreign languages for the first time
朝長 民子さん
(16歳で被爆。撮影時74歳、熊本市在住)
Ms.TOMONAGA Tamiko (16 years old at the time of bombing. Filmed at 74 years, living in Kumamoto-city)
16歳、広島の赤十字病院看護婦養成所の学生で、爆心から1.5キロの看護婦寮にいて被爆した。比較的軽傷で、倒壊した寮の下敷きになった学生らの救護に奔走。約200人の学生のうち、夕方歩いて集合できたのは36人のみだったという。
「窓の外に黒い線が見えるので何かと思ったら、男か女かもわからない、髪もなく鼻も取れて黒焦げの人たちが、着物も着ずに群れをなし病院に向かって歩いて来るのです。病院の前まで着いて安心したのか、ぱっと倒れてそのまま動かなくなるのです。恐怖を感じました。」
被爆者の苦しみや不安は「その日」以来延々と続く。「1週間ぐらいして、ほとんどの人が歯茎から血が出て髪の毛が抜けました。宮崎から来た友だちが朝、髪を結っていたら、バサッと音がして全部落ちました。彼女はワーッと泣きました」。
10日余り救護活動をしたあと、故郷の宮崎へ。「障害児や小頭症の子が生まれたというニュースを聞き、そういう子孫を残してはいけない、結婚はするまい、と思いました」。
たまたま自衛隊に入り巡り合った男性と結婚するが、夫は入市被爆で、1993年、肝臓がんで急死。「残留放射能をたくさん浴びていたのだと思います」。
夫の存命時、子どもを産むにあたっては「2人で非常に心配し、健康だったのでうれし泣きしました」。
朝長さん自身は、「坐骨神経症みたいで足が痛む。骨に異常があると言われる。(夫を亡くし、)きょうだい6人と母と私、8人の生活を守るのが精一杯でした」。
そうした暮らしの積み重ねから、核時代の不条理を見つめる朝長さんの目は厳しい。「あの時の状況を目にしていれば、どんな人間でも、今のように競い合って核を抑止力に使うようなことはしなかったと思います」「私たちが行動し、叫び続けても少しも良い方向には向きません。しかし決してあきらめてはいけない。今までの歴史を考えても、いろいろな意思を持って動いた人たちがいます。その当時は何も報われないように見えたことでも100年経った後でも、それが必ず報われるという事実を見聞きします。命ある限り叫び続ければ、いつか実ると信じたいです」 (長谷 邦彦)
コメントを書く