被爆者ものがたり⑤ 濱 恭子さん <下>

被爆者ものがたり⑤ 濱 恭子さん <下>
3.21市民・学生の集いで、濱恭子さん(右)と鳥羽洋子さん(中央)

被爆者ものがたり特別編 濱 恭子さん <下>

~ 母の想いは娘・鳥羽洋子さんへ、そしてフランスでの連帯へと続く~

~A mother and daughter’s shared hopes for peace

 

led them on a journey to France

 

and a deep sense of solidarity with the French people~
3.21市民・学生の集いで、濱恭子さん(右)と鳥羽洋子さん(中央)
3.21市民・学生の集いで、濱恭子さん(右)と鳥羽洋子さん(中央)

大阪大空襲と広島での原爆投下を経験した恭子さんが終戦を迎えたのは、19歳の時だった。その後、戦火に怯えることもなくなって、恭子さんは家庭を持ち、娘の洋子さんが生まれた。

洋子さんは子どもの頃から日々の生活の中で祖母の被爆体験を聞いて育ったという。自分が被爆二世ということも、ありふれた日常の中で普通に受けとめていた。そんな洋子さんが自分自身について強く意識するようになったのは1975年、大阪の府立高校で社会科教師となった年のこと。他校の男子生徒が白血病で亡くなっていたことを知り、衝撃を受けたのだ。男子生徒の母親は長崎で被爆し、彼の妹も、その二年ほど前に白血病で亡くなっていた。

ふたりの子どもを続けて失った母親の辛さと、次世代の子どもの『生きたい』という願いさえ踏みにじる核兵器への怒りと恐ろしさを実感した洋子さんは、二度とそのような死を繰り返してはならないという思いから、授業でこの男子生徒や核の問題について取り上げるようになった。

そうして80年代には、洋子さんが顧問を務める新聞部の生徒たちが8ミリドキュメンタリー「ヒロシマ」を完成させる。そこには、かつての恭子さんや祖母の避難経路を巡る記録が収められている。また、95年には海外の核実験に抗議し、ひとり校門でプラカードを持つ生徒に触発され、有志の同僚教師とその年の文化祭で反核平和展を開催した。ここで展示した文集(「祖父母に聞く戦争体験」)で初めて恭子さんの被爆体験が紹介された。ちょうど戦後50年目のことだった。

2005年、恭子さんは洋子さんの授業で被爆体験を語り始め、これが母子での活動のはじまりとなった。授業には小学生も参加し、『もし自分がそこにいたらどうしようと思った』との感想に洋子さんはハッとしたという。この想像力と感性こそが大切だ、と洋子さんは訴える。

2012年、恭子さんと洋子さんはフランスの市民集会に招待され、3つの都市で証言活動を行った。恭子さんが日本語で体験を語り、洋子さんがフランス語に翻訳する。母語で聞く証言はフランスの人々の胸を打ち、言語の壁を越えた連帯が生まれた。

この旅のほかに、日本でもフランスとの連帯が生まれていた。2002年、洋子さんが京都で偶然声をかけたフランス人作曲家 ルネ・マイヤー氏との出会いから連帯の心は芸術へと形を変え、フランスで実を結んだ。マイヤー氏は洋子さんがフランス語に翻訳した恭子さんの体験記に感銘を受け、「広島を生きぬいて」と言う名のカンタータを作曲する。その後、作詞家のモニク・シャルル氏が体験を歌詞で表現し、2013年にはパリでの初演が行われた。

「広島を生きぬいて」には、恭子さんが体験した過酷な状況と共に、憎しみや戦争にあらがい生きぬく強さこそ世界が一つになるための導きとなる、との希望のメッセージも謳われている。
母から娘、そして日本からフランスへと受け継がれた平和への願い。この曲が、多くの人の心に届くことを、洋子さんと恭子さんは願っている。
(榊原 恵美子 =事務局職員)

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